猫と人。繋がるものがたり ネコット

フォトグラファー 2023.07.06 飯館村のうたちゃんと子猫たち

2011年3月11日の東日本大震災から、ずっと猫と犬を救う活動をしている人がいます。

あの恐ろしい想像を超えた大震災も10年を過ぎると、人々の記憶が次第に遠くなっていく。

あの時、人々はこの世の地獄を見たに違いない。人間ばかりでなくそこで人と暮らしていた猫や犬たちも住む場所をなくすどころか、飼い主と別れたことで、行き場も食べ物も一瞬にしてなくしてしまう。そういう中でも生き抜いてきた猫や犬がいるのです。

ボランティアと一言では語れない10数年という長い時間にわたり活動を続けているカメラマンの上村雄高さん。 今回、猫の写真家を探していたら、偶然にもこの方と出会ったのです。

私(上村雄高)と飯舘村

2012年2月19日 誰もいなくなった納屋の2階に作られた猫たちのための餌場

こういう餌場がなければ猫たちは命を繋げられない。猫たちは餌場や他の動物から身を守る建物がなければ生き残れないのです。 村内には多い時で50か所以上、空き家などを利用した餌場が作られた。

私(上村)が飯館村を訪れたのは、2012年冬からでした。もう11年にもなるのですね。 飯舘村は福島県の北部、阿武隈山地の中腹に位置する村で、春から秋まではのどかな田舎の村ですが、冬になれば雪が積もります。

この静かで穏やかな村に住む人たちは、震災による原発事故によって一瞬にして日常を失いました。人間ばかりではなくそこで暮らしていた犬や猫たちにとっても同じです。 避難直後の飯舘村には取り残された600~700頭の犬猫がいました。

飯舘村は特殊な避難地域で、立ち入り禁止にはなりませんでした。

村民の多くは村から車で1時間程度の仮設住宅に避難し、そこから犬猫の世話に通っていました。 とはいえ、当時村内で村民に会うのは稀で、人だけが突然消えてしまった異様な光景に衝撃を受けたのを覚えています。

私は犬や猫を撮影するカメラマンだったことから、現地の犬や猫の様子を伝えたいという思いで飯館村に入りました。 もちろん写真を撮るだけではありません。ボランティアとして、犬猫にご飯を与えたり、犬の散歩もしました。これまで250回以上は現地に行っていると思います。

最初の5~6年は、月に1~2度程度、村を訪ねて保護活動に加わる程度でした。

その頃は、自分が行かなくても、たくさんの人達がチームやグループで来て世話をしていたので、犬猫たちが困ることはないと考えていたのです。

しかし、2018年の秋だったと思います。

この頃になると、現地に通うボランティアがごく少数になっていました。

毎週活動していたボランティア仲間に同行する機会があり、現地にはまだ私のやるべきことがあると考えるようになりました。 そして、私はそのころからほぼ毎週福島に通い始めることになるのです。

2012年6月30日撮影 「ふく」(男の子)お餅にあんこの大福の福です。今では我が家の住人(住猫)。

復興したような表現をされますが、10年やそこらじゃどうにもならない現実があります。

避難が解除され、再び人の営みがはじまっています。

しかし、村の景色や人々の絆は震災前の姿には程遠く、元通りになる未来は想像できません。
放射能への不安は根強く、若い世代の帰村は進んでいません。

猫や犬たちにとっても、未来が見得ないと感じました。

飼い主の多くが高齢のため、犬の散歩などのサポートも必要です。 そして、餌場を頼りに生きる猫たちにご飯を運び続けなければなりません。

この数年で、私は7匹の猫を保護しました。

しかし、餌場がある限り新たな猫が寄り付いてきます。

終わりの見えない活動です。 個人の力ではどうにもならないと何度痛感したことか・・・

それでもこの活動を続けられるのは、犬猫の心の美しさを知ったからかもしれません。

どれだけ孤独な時間を重ねても、犬猫たちの心は透き通ったままです。

犬猫たちは、人間を恨むことなく、いつだって表情や仕草で喜びや親愛を伝えてくれます。

私は現地の犬や猫が大好きになりました。 助けるために行く動機が「彼らに会いたい」という気持ちに変わったのです。

飯舘村で出会った猫たちのこと

(2012年2月26日)通りに停めた車の近くまで歩み寄ってきた「うた」

「うた」が特に人懐っこい飼い猫であるのは、すぐにわかりました。初対面から私の足元に体を寄せてきました。

「私はあなたが好きです」 猫は心許した人に頻繁にそう伝えてくれます。 私の膝上で丸くなったり、用はなくとも私の側に来たり、甘えた声で話しかけてきたり。

訪問を重ねるうち、うたは私の側にいる時間が少しずつ増えていきました。 うたにとって、飼い主不在の数年間のストレスは大きかったはずです。 フードに目もくれず、うたは真っ先に人の手足のぬくもりを感じようとしていました。 人が来るとご飯がもらえるからではなく、人が来ること自体がうたの喜びのように見えました。

(2012年2月26日)うたの後を追うように通りまで来た黒猫

人間は大好きだけれど、猫にはあまり興味がない、うた。

そんな彼女が仲間と認めていた雄の黒猫がいました。

うたほど人懐っこくなかった黒猫は、いつも姿を見せる訳ではありませんでした。

冬に会ったのを最後に、彼は姿を消してしまいました。 黒猫のエピソードを私は持ち合わせていませんが、彼にそっくりな女の子がその後生まれています。

ある日、私は道端に、うたを見つけました。
声をかけると、うたはついて来いと言わんばかりに歩きだしました。 うたに誘導され庭に入ると、母屋の屋根ですばやく動く小さな物体が目に入りました。

(2012年6月30日撮影)「すみ」ちゃん(女の子)イカ墨が名前の由来。現在、我が家在住。

うたの子供達です。

(2012年6月30日撮影)「おたべ」(女の子)白い皮にあんこの銘菓おたべが名前の由来。2023年5月天国へ。

村には、子猫の天敵であるカラス、トンビ、キツネたちもいます。 人がいなくなった土地で、勢力を増していました。

人前では甘えん坊のうたですが、子猫たちをそれらの外敵から守っていました。

 立派なお母さんです。

しかし、子猫が無事に育っても飯舘村で暮らす限り猫たちは野生の一部です。

野生動物にフードを奪われることもあれば、命を脅かされることもあります。

人目がなければ、小さな病気や怪我が致命傷になるかもしれません。

そして、何より誰からもあまり気に留められずに生きることになります。 我が家の猫と比べると、私にはうたの子猫たちの未来が曇って見えました。

私はうたから、子供たちを守るバトンを受け取る決心をしました。

うたの飼い主に偶然会えた日に、子猫たちを連れて行く承諾を得ました。

うたの避妊手術の承諾も得ましたが、うたは飯舘村に戻すという約束でした。

うたは術後、子猫たちとも離れ、またひとりぼっちにさせてしまうという事でもあるのですが・・・ その後、うたが庭でひとり過ごす日々は、4年近く続くことになります。

(2012年6月30日)「のりこ」(女の子)漢字表記は「海苔子」。もちろん海苔が名前の由来。我が家在住。

うたの子供達は「すみ」「おたべ」「のりこ」「ふく」 食べ物の名前を付けました。

のりこの成長した姿は、うたの相棒の黒猫にそっくり。

家人の避難後に生まれた子猫たちは、少なからず空腹を味わったはずです。

我が家ではお腹一杯食べて元気に育って欲しいとの願いを込めています。

子猫たちは、人との暮らしを知らずに育ちました。 我が家に来てしばらくの間、彼らは怯え戸惑い、私を威嚇しました。 しかし、やがて子猫たちは私に心を開いてくれました。 そして、みんな甘えん坊に育ちました。

うたの子猫たちを我が家に連れてきたのは、私が飯舘村で出会った最初の子猫だったからです。それだけの理由です。

もし最初に出会ったのが別の子猫だったら、彼らは野良猫になったかもしれません。

家猫と野良猫は、境遇で区別されます。

しかし、家猫と野良猫が持つ資質は違いません。

うたの子供たちが私にそれを証明してくれました。 わかりきったことかもしれません。でも、私にはとても大切な学びです。

違っているのは、人との関係性。

猫をまるっきり人と同じに考えるのは違うかもしれません。

しかし、共通点もあります。

私にはどちらも他者の愛情が心の栄養になると思っています。

誰かの愛情によって、心が満たされ安らかな気持ちになるから笑って暮らせるのです。

うたの子猫たちは、以前からいた猫たちと私の良き家族になりました。

その後うたもまた、新しい家族のもとで家猫として暮らしました。

飯舘村には、餌場を頼りに生きる猫がまだ10数匹います。

震災後に生まれた野良猫がほとんどです。 どの猫にも、うたやうたの子猫たちのような未来が来るよう、この先も私は活動を続けたいと考えています。

終わりに

取材を終えて、上村さんのお話しをまとめているうちに、言いようのない気持ちになりました。

猫や犬たちは、人間と一緒に暮らしてこそお互いが幸せになるのではないかと思います。

人間にとって、こんなに身近な存在として生き、ピュアな心を持った生き物がいるだろうか・・・と。

目の前に起きていることをすべて受け入れ、今のこの一瞬の幸せに喜び、私たちに大きな力を与えてくれるのですね。 飯館村で起きたことは、話し尽くせないことです。ほんの一コマを切り抜いてのメッセージになりましたが、忘れてはいけないことだと心に刻んでおきたいと思います。

取材・執筆 土屋和子/写真 上村雄高

上村雄高

フォトグラファー。「犬も猫も家族」をテーマに撮影。
イヌとネコとヒトの写真館(東京・国立市)https://nekotoru.com/121/ を運営。
2012年より福島県の原発被災地で犬猫の撮影を続け、現地訪問は250回を超える。
写真展「Call my name 原発被災地の犬猫たち」は、国内のほか台湾と中国でも開催。
2023年、中国で著書「呼唤我的名字(Call my name)」を出版。
16匹の猫と暮らしている。
https://callmyname.net/

土屋和子

「猫と人。繋がる物語」編集長。

元月刊パリッシュ代表&編集長。62歳までは経営者。その後はフリーランスとして現在は事業プロデユース・執筆・プロモーション制作(パンフレット・HP)等を手掛ける。フリーランスの仲間たちを繋ぐサイト「ツキヒヨリ」https://tuki-hiyori.com/を運営。
都心で黒猫シャロンと暮らしている。

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