看護師 2023.09.29 ようこそ、セラピーキャット共生型精神科病棟へ
ゴロゴロゴロゴロ。
25ヘルツの低周波。副交感神経を高める音が、今日も密かに鳴っている。
「おはよう、ぜんざい。いつも同じところにいて飽きないかい」
中庭の前に置かれているソファ。ここがボクの定位置。
今まさにボクの顎下を撫でているアイダさんは、今日の夜勤の看護師。
現在時刻は朝6時25分。もうじき、毎朝恒例のラジオ体操が始まるようだ。
雨天時には屋内の廊下で行われるが、今日は晴れているため中庭が開放されている。
アイダさんは曲を流すためのCDデッキを用意しつつ、「夜勤が明けたらベンキョウカイの準備をしなきゃ!」と嘆いているが、ボクには何のことだかさっぱりわからない。
それでも、声色からアイダさんが焦っていることは伝わってきた。
先のことはその時になってから考えればいいのに、全く人間は面倒な生き物だ。
ボクたち猫を見習いなさいってね。
「猫はのん気でいいよなぁ」と言われることも多いが、とんでもない。
今だってソファでくつろいでいるように見えるだろうが、これでも勤務中だ。
それだけでなく、却々いい仕事をしている。
患者のホシカワさんにも「ぜんざいを眺めながら身体を動かせるなら、早起きも悪くないね」なんて言われた。
そう、ここはセラピーキャット共生型の精神科入院病棟。
精神科単科病院、病床数40でいずれも個室。セラピーキャット5匹が滞在。
当院では医師の指示のもと行われる動物介在療法(AAT=Animal Assisted Therapy)、レクリエーションでQOL向上を図る動物介在活動(AAA=Animal Assisted Activity)が採用されている。
身体的・精神的・社会的機能の回復が期待され、精神科の入院加療を必要とし、且つボクたち猫を愛する人がここに集まってくる。ここで働く医師、看護師、作業療法士は、みんなアニマルセラピー関連の民間資格を持っている。
おっと、申し遅れました。ボクの名前はぜんざい。推定年齢4歳の雑種猫。生まれ育ちはわからないが、ここに来る前にホケンジョというところにいたのは覚えている。健康チェックやセラピーキャットになるための訓練を受けて、ここにやって来たんだ。
ここには他に4匹の仲間がいて、ボクたちはみんな保護猫。訓練の成果もあるけど、みんな元々人懐っこい性格だよ。
ボクたちの主なお仕事は、下記の3点。
●病棟内で日常的に患者やスタッフとコミュニケーションを取り合う
●集団の精神療法やレクリエーション活動に参加する
●個別の精神療法(支持的・精神分析的・森田療法など)に同席する
出張型のアニマルセラピーとは違い共生型(滞在型)であるため、病棟で暮らすためのルール作りに日々試行錯誤している。
例えば、ボクたちが自由に散歩できる場所は病棟内の廊下・休憩スペースと決められており、病室・ナースステーション・食堂・トイレ・その他機材庫などには入れないようになっている。中に何があるのか気になるけど、いつも入らせてもらえないんだ。
入院生活ではアニマルセラピー以外に、従来の薬物療法、精神療法なども同時並行で行われている。正直なところ、アニマルセラピー単体としての効果は可視化しづらく、アウトカムは量的ではなく質的に評価されている。従来の出張型のような短期間のセッションであれば、前後の変化を検証できるけど、ボクたちは生活の一部として溶け込んでいるからね。
20代女性患者のホシカワさんは、先日の主治医との面談でこう話していた。
「人から見捨てられることが不安で、今思い返すと家族にも友人にも必死にしがみついてました。自分でも何でこんなに苦しいのかわからないくらい感情の起伏が激しくて、死にたくなることもしょっちゅうで。
ここに来てぜんざいたちと過ごすようになって、気付いたんです。ぜんざいは人懐っこくて可愛いのはいいけど、私が一人になりたい時にもすり寄ってくることがあって。正直鬱陶しさを感じることもあって、もしかしたら私も同じことをしてたのかもしれないなって。
相手とのちょうどいい距離の取り方を、ぜんざいから教わった気がします。それに先生からぜんざいの生い立ちを聞いて、自分の環境と重なる部分もあって。今までこんな出来事があったから今の私がいるんだなって、初めて気付いたこともありました」
40代男性患者のバンドウさんは、こう話していた。
「自分は昔から頼まれたら断れない性格でして、家でも仕事でも無理をしてしまって、体調を崩したんです。ここにいる猫たちを眺めていたら、なんて自由なんだ、人の気も知らずにって、はじめは少し腹立たしさもあったんです。きっと羨ましかったんでしょうね。
ここでは猫の餌やりや掃除を、当番制で我々患者がやっているんですけど、体調が優れない時は無理せずにお断りして、他の方と当番を交換してもらうルールになっているんです。
長年この性分なもので、断る時はなかなか勇気がいりますけど、段々自分の気持ちに素直になってきた気がします。あー、なるほど上手くできているな、これも治療になっているんだなと。最近では猫たちの気ままな姿が投影されているのか、もう少し自分軸で生きてもいいかなと思えてきました」
こんな風に、ボクたちと過ごすことが、自分自身を知る機会になるらしいんだ。
先生との面談中もボクたちが同席して側にいることで、リラックスして話せるんだって。
訓練されたセラピーキャットとはいえ、ボクたちもひとりでのんびりしたい時がある。
治療プログラムの一環で、交代制でレクリエーション活動にも参加してるけど、無理やり連れていかれることはないんだ。ボクが嫌だと伝えたら、他の仲間たちにお願いしてくれるよ。いつも美味しいおやつをもらえるから、大抵は喜んで参加してるけどね。
そしてこの病院の画期的なところは、退院時に患者の希望があれば、ボクたちも一緒におうちに帰れることだ。もちろん、保護猫の譲渡条件のもと、ボクたちと一緒に暮らせる環境にある人だけね。退院後に改めてトライアル期間が設けられるけど、入院中に沢山お話させてもらっているから安心だよ。
このように、病院という治療の場に加え、保護猫活動の拠点としての機能を併せ持っている。この前も、ボクと仲良しだった茶トラのきなこが新しい家族のもとへ帰って、また新たな仲間をここに迎え入れたばかりなんだ。
おっと、話しているうちにラジオ体操が終わったようだ。
参加していた患者の多くはそのまま食堂へ移動し、朝の情報番組を見始める。
アイダさんはあくびをしながらナースステーションへ戻り、すぐさま血糖測定の準備をしている。採血に、点滴交換に、食前の与薬に、オムツ交換に、朝食準備に…。この時間帯はいつも慌ただしい。
ボクはまだまだ眠いから、もう一寝入りしようかな。
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「………?」
「あら、ぜんざい起きたの。気持ちよさそうにお昼寝してたわね」
あっ、おばさんだ。いつの間に寝てたのか。このソファはいつも僕を眠くさせる。
そう。僕はおばさんとおじさんの飼い猫で、この家で暮らしている。
4年前、おじさんが仕事の過労で精神科病棟に入院した。
その時おばさんがポツリとこぼした、「お父さん大丈夫かしら。病院にもぜんざいみたいな猫がいたら癒されるのにねぇ」という言葉が印象的だったようで、以来何度も同じ夢を見る。
もしかしたら、こっちの世界のほうが夢なのかもしれないが、僕にはわからない。
なんせ、猫は眠ってばかりいるからね。
執筆:葉山つむぎ
看護師・保健師として、精神神経科救急病棟と精神科訪問看護を経験。子供が幼いうちは在宅ワークに切り替えたいと考え、一旦看護師を退職する。
現在はフリーランスとして、家事育児の合間にweb・コピーライティング、作詞、音源制作、看護学生の学習サポート等、自分にできることであればどのようなご依頼でも承っております。
子供と猫と戯れながら在宅ワークで生計を立てようと、もがいている最中です。